このブログの2011年の記録はバックアップをとってあるものの、いろいろ思うことあり、webサーバー上から消してしまいました。だから、あらためて書いて残しておこうと思いました。

09:00〜12:00 千葉市立養護学校・卒業証書授与式。

その日、最愛の息子の卒業式。
自分も母親ご苦労さん卒業式。

12:45 出かける準備をする。

いつもは総武線快速に乗るのに、その日はなぜかまったりと各駅停車でのんびり秋葉原まででようと思っていました。
当時の職場は秋葉原と神田の間にある民間職業訓練校。

金曜日でしたが、明日の朝早く大事な会議があったので、楽天トラベルで神田駅近くのビジネスホテルを検索・予約してから家を出ました。←これは神がかってた。数時間後の自分がどれだけ助かったことか!!

現在でいうとこんな感じの電車です。

土気 13:44発 - 秋葉原 15:00着

乗り換え回数:1回
所要時間:1時間16分

●土気
|  13:44発
|    JR外房線(普通)[千葉行]20分
|  14:04着
○千葉
|  14:10発
|    JR総武線(普通)[三鷹行]50分
|  15:00着
■秋葉原

14:46その時。

総武線各駅停車で平井駅手前。
電車に乗っていても変な揺れを感じ、車内アナウンスが「駅に着いたら速やかにホームに出てください!」と連呼。

あまりの揺れに腰が抜けながらもiPhoneで動画を撮っていました。

Twitterで家族の消息を確認。

不幸中の幸いとはこのこと。高校を卒業して息子と亭主は家に居る。
娘とは相互フォローしている。

電話なんか通じるわけもないので、Twitterが家族をつないだ。

徒歩で職場に向かう。

まずトイレに行く。今はまだ使えるようだったし。
ペットボトル飲料水を1本買う。

iPhone用電池も持ってる。

GoogleMapで経路確認。一旦電源を切る。

そしてまっすぐ南下し国道14号線沿いに歩いて神田駅方面に向かう。約2時半。

水道管が破裂し、水が噴き出している場所があったり、骨壷持って逃げてるおばちゃんがいたり。
なかなか普段見られる都内の光景ではなかった。

歩きながら大事な情報だけはTwitterで発信したり情報を得たりしていた。
錦糸町のバスターミナルに人が溢れていたが、営業所からは臨時バスが出始めていた。
しかしそれでも十分な本数ではなかったので、都内のどこの駅でも人で溢れかえっていた。

夕方の4時なのに薄暗く、雲が立ち込める不思議な空だった。

職場にて。

電気はつながっていたので、教室のPCを使って情報を収集。
メールなどで生徒たちに休講の連絡をしたり。

私が独自に教室の情報サイトをWordPressで作ってたので、そこにしばらくは休講情報を掲載することになった。

登校してきた生徒たちを帰した後、予約してたホテルに向かった。

コンフォートホテル神田

都内の公共交通機関は麻痺し、帰宅困難者であふれかえってた。
コンビニは何も無くなっていた。

ホテルについた時も、空室の問い合わせでフロントがごった返していた。
私はエレベータが使えなくなっていたホテルの8階に用意された部屋に入った。

Skype電話で家族の安否確認

娘も職場から無事に自宅に帰ったという。
亭主に頼んでそれぞれの実家の安否を車で回ってもらい確認してもらった。

私の実家で亭主が母とつないでくれ、娘と私とそれぞれ3箇所でSkype通話をした。
みな元気そうでよかった。

翌日私は娘と合流し、電車が動いたら帰宅すると告げ、通話を切った。

余震の続く夜を越えて。

8階だったからというのもあるけれど、ちょっとした揺れにも敏感になっていて怖くて泣きながら夜を過ごした。
眠れなかった。

家族の前では平気な声で家族を元気付けようと思っても、やはり一人では本当に怖かった。

あれから5年。

今でも遠出する時には歩きやすい靴と両手が荷物でふさがらないようにディパックなどで出かける。
もしここで震災にあったらというシミュレーションは欠かさない。

荷物は無駄にあると、疲労で自分の命を削る。
軽食と水分と、通信機器と電池。着替えなんていらない。

そして親戚の多い東北の現実を自分の目で見るための旅。
2014年2015年、そして今年は3回目になる。
いつも誘ってくれる友人たちに感謝。

阪神淡路大震災後の神戸にも、何度も何度も足を運びました。
だから関西を知ってる変な千葉県民だったりするのです。

私たちは地震大国日本に生まれ育って、そして住んでいることを、つねに忘れてはいけないと思っています。